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    愛と幻想の日々

愛と沈黙の場の記号論










序文

この小さな記号論は、ある夜ふと浮かんだひとつの言葉――「愛と沈黙の場の記号論」――から始まった。言葉にすれば壊れてしまう感情、語られた瞬間に遠ざかる愛、その矛盾の中でなお文字を紡ぎ続ける存在としての〈わたし〉。

西欧では愛は語るものだった。だが東洋の空気の中で育ったわたしにとって、愛はむしろ「語られないもの」として深まっていった。目に見える文字よりも、声にならなかった気配の方が、真実に近いと感じた。

この記号論は、そんな愛の生成と変容を、言葉、沈黙、場、記号という軸から辿ってゆく小さな旅の記録である。言葉で傷つき、言葉で祈り、やがて言葉から離れてなお愛し続けようとする者の、ある種の告白でもある。

前段

私には顔がある。しかし目の位置も鼻の形も頬の膨らみもぼやけてあるべきところから失せている。ただの文字と化した顔だけがある。男でもあり女でもある顔がある。考えようによっては、無数の顔があることで、かろうじて現実世界にぶら下がることが出来ているのかも知れない。労働の報酬によってちんけな部屋を借りることが出来、体重を維持するだけの飯を食うことが出来る。知り合う以前は他人であった相方と共同で暮らしているが、やはり基本はどこか孤独な私だ。しかし、この世にいられるだけで充分に幸せだと言える。たとえ明日命を失うにしても、今ここでこうして文字に何かを託しながら、有り得ないかも知れないもうひとつの顔の輪郭を作り出す作業を繰り返す己を愛しいと思う。

出来ればしたくない労働の合い間に行われるこうしたすべてのことを考えると、時間はあまりに足りない。書きたいことだらけなのに書く時間が足りない。それを思うと絶望的な作業であるのだが、そうでありながらも限りない自由を感じさせてくれる孤独な作業。

この作業時間は労働の時間に比べたら少なすぎる時間だからこそ、私は根気よく作業を繰り返せるのだ。この命がどこまでいってもこの己自身の中でしか脈打たないのだとしたら、たとえそれが耳鳴りによって感じ取られる命の鼓動であってもいい。己の中で鳴っている早鐘を聞こうと思う。胃に穴のあく苦しみも、くったくのない笑いも命こそだ。脈打つ血液の流れを感じ取ることが出来るのは、この激しい耳鳴りのお陰だ。もう長い時間つきあってきている脈動する耳鳴りがどんな病を暗示しているのか知る由もないし、知りたいとも思わない。

今、文字をただダラダラと打ち紡ぐ己の中では、何かしらの想念に溢れている。たぶん、生きたいという想いだ。永遠という"顔"を造り上げるまでは、奇妙な音と振動で脈動し続ける耳鳴りと共に生きていたい。

言葉の変容と裏切り

 言葉は、いつから「愛」の運び手になったのだろう。
 神は「はじめに言葉ありき」と言ったという。だが、その言葉は「命」を伝えることができただろうか。
 それとも命の代用品として、言葉が生成されたのだろうか。

 私は愛を語ろうとして、幾度も言葉に裏切られた。
 まっすぐに伝えるはずの言葉が、紙の上で歪み、読まれるときにはすでに私の意図から遠く逸れている。
 「好きだ」という言葉が、「都合のいい人」になる瞬間を知っている。
 「愛している」が、ただの定型句に成り果てる場面をいくつも見た。
 それでも私たちは言葉にすがりつく。
 なぜなら、言葉を介さずには、愛が共有された実感を持つことができないからだ。
 言葉が裏切ると知りながら、私たちは何度でもその扉を叩く。

 しかし、この章で問いたいのは、裏切りの構造そのものではない。
 むしろ、「裏切られながらも書く」という行為が私たちに何をもたらすか、である。

 言葉が変容する。
 愛を語ろうとした語が、記号の海に放り出された途端、もはや私のものでなくなる。
 たとえば、「あなたを想っています」と書いたとする。
 それが、読む者にとっては過去の後悔のように響くかもしれないし、脅しのように感じるかもしれない。
 あるいは、何も感じられずに、ただの情報として通過されるかもしれない。
 だが、私がこの言葉を発した瞬間、私の内部でだけ生じていたあの焦燥、あの切実さ、あの呼吸の波──
 それらは言葉という枠に収まったとたん、死んでしまう。

 それでも、私は書いた。
 言葉にならないことを言葉で書こうとする、その矛盾のなかにしか生きる場所がなかった。

 言葉は裏切る。
 だが裏切られるために、私は文字を打つのかもしれない。
 裏切りの瞬間にこそ、私は「この感情は、もう私だけのものではない」と知ることができるからだ。
 それが、誰にも届かぬまま朽ちるとしても──それは、もはや私の一部ではない。

 こうして言葉は、私から生まれ、私を裏切り、やがて私のもとに戻ってくる。
 ちがうかたちで。
 それは、時に手紙のすみで見つけられる折れた句読点かもしれないし、
 相手が読み飛ばした空白のまにまに息づく、沈黙の核かもしれない。

 だから私は、この変容と裏切りの連鎖のなかでしか、愛を思い出すことができない。
 それが、私の愛だった。
 いや、私の愛の、かつての痕跡だったのかもしれない。

沈黙の文法

 言葉がすべてを語るのではない。
 むしろ、語られなかったことの総体が、私たちの関係を静かにかたちづくってきた。
 私は今、その沈黙に、文法があると信じはじめている。
 話すことで失われるものがあるなら、沈黙によってこそ伝わるものがあるのではないか。

 愛の現場には、しばしば言葉がない。
 見つめ合ったまま動かない時間。
 差し出した手を受け取るかどうかのわずかな間。
 息を殺して、風の音を聞いている夕暮れ。
 そこには意味ではなく、場の緊張がある。
 場が発しているのは「沈黙」ではなく、「言葉を超えた配列」だ。
 その配列には秩序がある。文法がある。
 それは呼吸の長さや視線の重さ、心拍と空気の温度差で出来ている。
 私はそれを、沈黙の文法と呼ぶ。

 この文法は、翻訳できない。
 たとえば、あなたが言葉にせずにそっと扉を閉じたあの夜、
 私はあなたの背中に「もう戻らない」と書かれているのを確かに読んだ。
 その文は、どこにも書かれていなかった。
 だが、私は読んだのだ。空気のひと綴りとして。

 この文法には、主語がない。目的語もない。
 その代わり、間(ま)がある。余白がある。呼吸の窪みがある。
 そこに立ち止まることができる人間だけが、この文法を読むことができる。

 西欧的な言語体系が「何かを言う」ことで意味を生成してきたとすれば、
 東洋的な沈黙の文法は、「言わないこと」「遅らせること」「空白を残すこと」によって意味を浮上させてきた。
 水墨画の余白が主題を際立たせるように、
 詩が行間で語るように、
 茶の湯の作法が所作に感情を託すように、
 沈黙は、最も高度な言語として場に浸透してきた。

 私はいま、言葉の使用者として、
 その言葉が破壊してしまった多くの「場」を思い返している。
 早すぎた告白。
 不用意な問いかけ。
 沈黙していれば、愛はまだそこに在ったかもしれない。

 沈黙とは、相手に「委ねる」ことでもある。
 言葉をかけずに、信じる。
 問いを発せずに、待つ。
 そうすることで、場は場としての重みを保つ。
 そうして初めて、言葉にならなかった「愛の気配」は、
 崩れずにとどまることができる。

 私は沈黙を語るために、今日も文字を打っている。
 矛盾している。けれど、
 矛盾を受け入れなければ、この記号論は成立しない。
 沈黙は書かれることで、ふたたび沈黙のかたちに還元される。
 それは言葉の亡霊のようでありながら、なお言葉の源泉でもある。

 私はこれからも、沈黙を記述し続ける。
 かつて誰にも渡せなかった「愛の沈黙」を、
 せめて言葉のかたちで、静かに差し出すために。

場の記号学

 言葉が発される前に、すでに世界には意味が満ちていた。
 その意味は、言葉によって説明されるよりも先に、空間に染み込んでいた。
 私はそれを、「場」と呼ぶ。

 場は、言葉よりも先に「関係」を孕む。
 たとえば、あなたと私が初めてすれ違った廊下。
 そこにはまだ会話もなかったが、気配だけが交差していた。
 目が合わず、肩も触れず、ただ風のように通り過ぎたその一瞬が、
 なぜか記憶の深部にこびりついている。
 なぜだろう。
 それは、場そのものが語っていたからだ。
 その廊下が、わたしたちの「関係」の予感を孕んでいた。

 日本の伝統建築や庭園に見られる「間(ま)」の思想もまた、この感覚と深く繋がっている。
 畳の間合い、障子越しの光、襖を開けるときの音と気配、縁側の沈黙、
 そこには名もない記号たちが、密やかに秩序を織り成している。

 場とは、語られる以前の愛の生成器だ。
 そして、別れの容器でもある。
 私があなたの背中に「戻らない」と書かれているのを読んだとき、
 それは言葉ではなく、場の気配だった。
 扉の閉じ方、閉まった後の静寂、夜の濃度、それらが織り成す文法のなかに、愛の終わりが潜んでいた。

 私は、もう言葉で愛を語ることに疲れていた。
 けれど、場は常に何かを語っていた。
 あなたの気配が残る椅子の沈み込み、洗面台の隅に残された歯ブラシの湿気、
 冷蔵庫に貼られたままのメモ、それらはすべて、「言い残し」だった。

 記号とは、ただの意味の符号ではない。
 それは、感情が凝固した痕跡でもある。
 空間に染みついた温度、埃のたまり方、電灯のちらつき、
 それらは「書かれなかった愛の文章」として、私の身体に刻まれていた。

 私は今も、その場に生きている。
 あの気配の濃密な空間に、名づけ得ぬ関係の余韻として漂っている。
 私はそこに言葉を持ち込むことをためらいながら、
 それでも記述をやめることができない。
 この「場の記号」を、いつか誰かが読んでくれるかもしれないと信じて。

 あなたがいなくなった部屋で、私はひとつの文を書いた。
 それは、「愛している」ではなかった。
 ただ、部屋の空気の重みによって滲んだ、ひとつの形なき言葉だった。
 それは読む者によって、
 「待っている」とも「忘れない」とも「もういいよ」とも読み取れるだろう。
 そう、それこそが「場の記号」なのだ。

 私は今日も、言葉に寄りかかりながら、
 本当は「場の残響」を書いている。
 その残響が、いつか読み取られるなら、
 それだけでこの記号論は成立する。

読まれない文字という愛

 誰にも読まれないままに書かれた手紙がある。
 封をされることもなく、投函されることもなく、
 机の引き出しの奥で、黄ばんで眠る文字たちがある。
 それらは、一度も他者のまなざしに触れることなく、
 それでも確かに「書かれた」という事実だけを持って存在している。

 私は、あの手紙たちこそが、もっとも誠実な愛の記号なのではないかと思っている。
 読まれることが目的ではなく、書くことそのものが祈りであり、
 それによって自分自身を支えるためだけに綴られた文字。
 それらは、伝達ではなく、持続のための行為だった。

 愛とは伝わるべきものだと、私たちは思い込んでいる。
 けれど、伝わるたびに、その形は変わってしまう。
 手渡された言葉は解釈され、誤読され、歪められ、
 いつしか本来の温度を失っていく。
 ならばいっそ、読まれないままの言葉のほうが、
 純粋に「書かれた当時のまま」、
 愛の震えを閉じ込めていられるのではないか。

 そう考えるとき、私の部屋の空気が少しだけやわらぐ。
 誰にも見せなかった詩の断片、
 書きかけて捨てたメールの下書き、
 あるいは、声に出すことすらできなかった「ごめん」と「ありがとう」。
 それらは今も、この空間のなかに微かに漂っている。
 まるで文字にもならない「残響」として。

 読まれない文字は、孤独の形見である。
 だが、それは決して無意味ではない。
 それは、世界のどこにも届かなかったが、確かにこの世界に存在していたという証明なのだ。
 愛されたことを証明するのではなく、
 愛したことを確認するためだけに書かれた言葉。
 その存在が、書いた者自身を癒やすことがある。

 私は今日も誰にも宛てずに文字を打つ。
 読まれることなく消えていくことを前提に、
 それでも言葉を紡ぐ。
 この行為そのものが、誰かへの最も深い「対話」なのかもしれない。
 いや、誰かという不確かな存在にすら届かない、
 “空間そのもの”への愛の告白かもしれない。

 読まれない文字の美しさは、
 意味の生成を拒んだ沈黙とよく似ている。
 声にならなかったまま、
 気配としてだけ存在した愛の、最後の証人なのだ。

 私はいま、誰の記憶にもならないまま、
 ただ一片の言葉としてここに残ることを選ぶ。
 たとえそれが砂に書かれた詩であっても、
 風にさらわれる運命であっても、
 それを書いたという事実だけが、
 私の愛の、唯一の形見になるのだから。

終わりに:空白としてのわたし

 ここまで、いくつの言葉を費やしたのだろう。
 愛の不確かさ、沈黙の文法、場の記号、そして読まれない文字の慰め。
 私はあらゆる側面から言葉をめぐり、言葉の限界に立ち戻ってきた。
 そして、ようやく分かる気がする。
 私がずっと書き続けていたのは、「わたし」という空白だった。

 言葉は、私をつくった。
 けれど、言葉だけでは私を保ちきれなかった。
 沈黙の場に浮かぶ気配がなければ、
 記号としての言葉はただ宙に舞い、消えていった。

 私は、言葉の隙間に住みたかったのかもしれない。
 声にならない想い、読まれない文章、思い違いのまま残された断章。
 それらのなかにこそ、**「私であること」**が確かにあった。

 誰かに理解されることを望みながら、
 同時に理解された瞬間に壊れてしまう何かを、
 私はずっと守ろうとしてきた。

 だからこそ、私は「語りえぬこと」そのものを記述する旅に出た。
 そしてその果てに残ったのは、空白だった。
 だがその空白は、恐れや虚無ではなく、開かれた余白としてそこにある。
 読まれなくてもよい。
 届かなくてもよい。
 その余白に向かって手を伸ばすこと。
 それこそが、私の愛であり、生であり、存在だった。

 言葉を尽くしてたどり着いたのは、
 言葉を超えた沈黙だった。
 誰にも語れなかったことのすべてが、
 この沈黙の中に、柔らかく包まれている。

 私はいま、何も書かないまま、書いている。
 呼吸の間、行と行のあいだ、
 読まれない文字たちの余白に、
 ひっそりと身を預けている。

 もしかするとこれは、
 読者に向けられた書物ではなかったのかもしれない。
 語り手が、語りえぬ自分自身と静かに向き合うための、
 ひとつの沈黙の場
だったのかもしれない。

 だからこそ、この記号論は、ここで静かに閉じられる。
 まるで、誰かがそっと扉を閉じるように。
 その背中には、何も書かれていない。
 だが、私には確かに読める。
 それが、「愛」と呼ばれるものの最後のかたちなのだと。

あとがき

この記号論は、何かを説明するために書かれたものではない。むしろ、語ることができなかった時間、愛されたことも、愛したことも記号にならず沈黙に沈んだままの、あの「場」の痕跡を、もう一度自分自身に読み返すために書かれた。

私たちは、語ったことで失ったものを、いつもどこかで引きずっている。沈黙を破ったことの後悔。伝えきれなかったことの痛み。それでも言葉にすがるしかなかった夜。そうした夜のなかで紡がれた文字たちが、この小さな記号論を構成している。

読み手がそれぞれの沈黙のなかで、この言葉たちを読み替え、すこしでも「自分の記号」に引き寄せてくれたならば、それは書き手としての私の孤独が、ほんの一瞬だけ救われたことになるのかもしれない。










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