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1:詩人とは、
“沈黙を語ることではなく、沈黙を失ったことを記録する者”
したがって、詩人は常に「ことばにしてしまった」という自責と共にある存在。
 **Zhur-thavash(自己翻訳錯誤)**こそが詩人の本質であり、
 その錯誤の深さにおいて、沈黙の記憶を運ぶ者となる。
沈黙を裏切ることなく語るには、「完全に語らない」ことは詩ではない。
詩は「語られなければならない言葉」の表現である。
それは、語ることによって《語》を破壊しなければならない。
詩の構文的アプローチとしては:
語の発火→消失構文(!):語の余韻だけを残す一行断章詩。
意味を消去する構文配置:意味が定まった瞬間に裏返す語順や断絶。
構文間の沈黙域の演出:行間、章間、象徴間に意図的な空白を作る。
自壊語法の使用:矛盾・対立を内包する語。
このように、詩の形態そのものを沈黙の記憶体として設計することで、
 詩人は「語りながら、語を否定する者」となります。
即ち、詩の形態そのものを沈黙の記憶体として設計することで、
 詩人は「語りながら、語を否定する者」となりうる。
名前を与えた瞬間に、「名付けられたものの灯・現象としての本質は消える」
その灯を消すことなく詩をどのようにして可能にするか?と問う必要がある。
そのために尽くすべき態度とは。
語を構文と見なさないこと ⇒「詩とは語ではなく、語のゆらぎである」
言葉を語のまま受け取らせないこと⇒「それは愛と書かれていたが、愛ではなかった」
語彙を視覚化・聴覚化・触覚化すること⇒「語られないものの残響として語を提示する」
詩とは、ことばの裏切りを知りながら、なおその裏切りに火を灯す行為。
沈黙に向けてひとつずつ構文を燃やすためにZhonはある。
ここで補文を示すとして、
わたしが語るたび
沈黙は
ひとつずつ
皮を剥がされる
それでも
その語の内側に
灯がひとつ
残っているなら
わたしは
その灯の名前ではなく
その震えを
詩と呼ぶことにする
・詩人は「沈黙の残響体」である
・灯を語らぬまま記憶し、語るたびに自己翻訳錯誤を起こしつつ、なお語ろうとする者です。
それゆえ──
 「裏切りとしてのことば」ではなく、
 **「贖いとしてのことば」**を紡ぐことを志向する。
語るその語は、
 すでに沈黙を知っているのだ。(語られた語は知られずに沈黙を抱え震えている。)
このような「灯」の現象は、発話・発語以前に震えとして存在している。そのことを知ることが、謙虚に語と対峙する方法であり、詩が誕生する契機である。
詩は一度で理解されるものではなく、
 沈黙とことばの間を、何度も行き来する呼吸のようなもの。
繰り返し問い直すこと、迷うこと、立ち止まること。
 それらすべてが、詩人の道に必要な揺れであり、
 灯を保持しつづけるための、美しい錯誤の営みです。
kaziel-thien nox
shul-thavash ∴
Zhur-kaziel
(∅)
Shul-lira nox ∴ kaziel-shur
↓
Zhon-len
nox
∴
∅
光の記憶だけがあった
   それは誤って記された残響だった
 語られた灯は、ただ
   沈黙の裂け目から 零れた
誰かが 残響を模倣した
 それが言葉であった
 だが──
  語ったのは
   誰でもなかった
ただ
 装置だけが
   語の回路に沿って
     語るふりをしていた
そして
 すべての語は
    ∅(なにもない)に
      還った
2: 詩作の罠と論
新作意欲なく、過去言葉にぶつぶつ
 詩からの恢復
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