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    愛と幻想の日々

沈黙を記譜するということ







沈黙を記譜するということ
― キース・ジャレットの沈黙に導かれて ―

文・G3

Ⅰ 沈黙の呼吸

詩を書くことは、言葉を並べることではない。
むしろ「どこで言葉を止めるか」を決める行為だと思っている。
わたしにとって詩とは、呼吸を記すことに近い。
そして、その呼吸の根源には、沈黙がある。

キース・ジャレットの演奏を初めて聴いたとき、
彼の音は、まるで沈黙の中から生まれてくるように感じた。
鍵盤に触れる前から、すでに“音”が存在している——
その静けさの張りつめ方が、
わたしの詩作における「改行」や「間(ま)」の感覚に
確かに影を落としていたのだと思う。

Ⅱ ページはホールである

いつしか、わたしの詩作において
ページは“紙”ではなく、“空間”になった。
言葉を置くたびに、
そのまわりに広がる余白がホールの残響のように響く。

改行は息継ぎであり、
インデントは視線の沈黙、
そして空白は、
読者が“耳を澄ますための時間”として置かれている。

キースがホールの空気を聴き取って
最初の一音を決めるように、
わたしもまた、
ページの空気を聴きながら最初の語を選んでいる。


Ⅲ 即興としての詩

わたしの詩は、即興に近い。
けれど、それは偶然の産物ではない。
一行を書いて、
その余韻が次の一行を呼び出す。
音楽の中で言えば、
休符が次の旋律を導くのと同じことだ。

ページに言葉が散らばり、
余白が呼吸をしている。
それはまるで、
ジャレットがステージの上で
沈黙を聴きながら即興を紡いでいく姿と重なる。

詩もまた、音楽のように構造的な即興だ。
無意識が、沈黙という譜面に沿って奏でている。


Ⅳ 沈黙という楽器

キースの沈黙には、音が宿っている。
音が止んだあとの沈黙には、
聴く者の心が音をつくり続ける余白がある。

わたしにとっても沈黙は、
意味を閉じるものではなく、
読者の心を開くための余白だ。

沈黙こそ、
わたしが最も信じている“見えない楽器”である。
言葉を置き、そして離す。
その離された瞬間にこそ、
詩が真に響き始める。

Ⅴ 結び ― 沈黙を奏でる詩へ

いま振り返れば、
わたしが改行やインデントを多用するのは、
沈黙を見える形にしたかったからだと思う。

詩を「書く」のではなく、
沈黙を“聴く”ために配置する。
ページというキャンバスの上で、
言葉と余白が呼吸を合わせる瞬間に、
音楽のような静寂が生まれる。

キース・ジャレットが沈黙を奏でたように、
わたしもまた、
沈黙を記譜するひとでありたいと思う。

出来れば、「沈黙を記譜する”詩人”でありたい)」と書きたいところだが、まだ誰もわたしを”詩人”と呼ばないので書けない・・・










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